中山道赤坂宿跡(大垣市)を歩きました。その2
中山道赤坂宿跡(大垣市)を歩きました。その2
(前回の続きです。)
大名が、江戸と領地の間を行き来した参勤交代制度によって、江戸と各地を結ぶ街道沿いに
宿場町が整備されました。
本陣とは、大名や公家などの宿泊施設として指定されていた家です。
本陣とは、大名や公家などの宿泊施設として指定されていた家です。
一般の人は、本陣には、泊まることができませんでした。
![イメージ 1](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/b/bottchandesu/20010101/20010101083810.jpg)
![イメージ 2](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/b/bottchandesu/20010101/20010101083850.jpg)
![イメージ 9](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/b/bottchandesu/20010101/20010101084000.jpg)
![イメージ 7](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/b/bottchandesu/20010101/20010101083940.jpg)
この赤坂宿では、馬淵家、平田家、谷家、そして矢橋家が本陣役を受け継いだそうです。
皇女和宮もここに宿泊しました。
皇女和宮もここに宿泊しました。
しかし現在は跡形も無くなり、本陣公園となっています。
![イメージ 10](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/b/bottchandesu/20010101/20010101084010.jpg)
そこからさらに西に進むと、特にこのあたりに、江戸時代の面影を残す風情のある家並みが
両側に続いています。
この写真の奥の方で、道路がクランク上に折れ曲がっています。
これは枡形と呼ばれ、本陣に宿泊している大名が攻められにくいように、道路が折り曲げ
これは枡形と呼ばれ、本陣に宿泊している大名が攻められにくいように、道路が折り曲げ
られています。
![イメージ 11](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/b/bottchandesu/20010101/20010101083820.jpg)
![イメージ 12](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/b/bottchandesu/20010101/20010101083830.jpg)
![イメージ 13](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/b/bottchandesu/20010101/20010101083840.jpg)
進む谷汲街道、南の伊勢方面に行く養老街道が伸びる当時の交通の要所でした。
今で言うと、楽田と河間の交差点のようなものですね。
(このマップは、本陣跡にあったものなので、現在地は違います。)
北東の角に道しるべが立っています。
![イメージ 3](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/b/bottchandesu/20010101/20010101083900.jpg)
矢橋家住宅です。
石灰などで財をなした、たいへん立派な豪邸です。
![イメージ 4](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/b/bottchandesu/20010101/20010101083910.jpg)
![イメージ 5](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/b/bottchandesu/20010101/20010101083920.jpg)
![イメージ 6](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/b/bottchandesu/20010101/20010101083930.jpg)
その西にあるのが、本陣に泊まりきれなかった場合や、複数の大名などの宿泊する場合に
江戸時代の面影を残す中山道の赤坂宿跡を歩いて、当時の赤坂宿の繁栄の様子を
思い浮かべることができました。
(もうちょっとだけ続きます。)
中山道赤坂宿跡
[住所] 大垣市赤坂町
道しるべのあたり
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