中山道赤坂宿跡(大垣市)を歩きました。その1

寒くなってきました。

寒くなってきて、伊吹山も白くなってきました。
今年は雪が降る前に、ALTEZZAスタッドレスタイヤに交換しました。
紅葉の記事も終わりましたので、背景をクリスマスモードにしてみました。
 

中山道赤坂宿跡(大垣市)を歩きました。その1

大垣市中心部からは、国道21号線国道417号線の河間の交差点から北西に進み、
赤坂大橋を渡ったところからの県道216号線が、旧中山道です。
 
旧東海道国道1号線ですが、なぜか中山道は一本の道路でつながっていません。
岐阜県内の中山道は、国道21号線のルートに近いですが、大垣市内の21号線は、
美濃路ルートになっています。幹線道路から離れている分、江戸時代からの
面影を残す趣のある土地が多いです。
 
大垣市赤坂町は、現在では大垣市の一部ですが、江戸時代には、江戸から京都手前の
草津宿までを結んだ中山道の57番目の宿場町の赤坂宿として栄えていました。
先日の記事の小簾紅園の和宮も京都から江戸に行く途中、この赤坂宿で宿泊しました。
その後、明治時代には、これも先日の記事の明星輪寺のある金生山から産出される
石灰大理石の産地として栄えました。
赤坂町は、江戸時代から戦前にかけての繁栄の面影を残す町並みになっています。
 
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県道216号線を西に進んでいくと、左手に、赤坂宿御使者場跡という碑が立っています。
大名などが、中山道を通ってきた時に、赤坂宿からお迎えに来た場所だそうです。
 
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そこから小さな川を渡った南側に立派な火の見櫓が立っています。
 
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その北側に常夜燈があります。
 
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その常夜燈の下には、赤坂港跡の碑が立っています。
赤坂港は、かつて杭瀬川の流れを利用した石灰などの水運で賑わい、1日500艘もの
船が往来する川港として栄えていました。
 
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現在の杭瀬川は、東に付け替えられ、ここの流れは用水路のようになっており、
水量も少なく、当時の面影はあまりありません。
川には鯉が泳いでいました。
 
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赤坂港跡のすぐ西側にある建物は、残念ながら復元されたものですが、明治初期の
洋風建築で、明治8(1875)年に、ここからすこし西側の中山道と谷汲街道の分岐点に
建てられた警察屯所を復元したものです。
赤坂港会館として資料館、案内所になっています。
この赤坂港会館と川湊跡は、大垣市景観資産の28番に指定されています。
 
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さらに西に進むと、西濃鉄道の踏切があり、そこに坂本町駅跡の碑が立っています。
金生山は石灰石や大理石の産地で、その輸送は馬車や赤坂港から杭瀬川を利用した
水運で行われていましたが、輸送力の限界から鉄道敷設が計画され、西濃鉄道
設立され、1928年に市橋線昼飯線が開業しました。
戦前には、旅客輸送も行われ、ここに、坂本町の駅があったそうです。
 
 
ここまでは、明治時代以降の繁栄の歴史に触れましたが、ここから西側には、
江戸時代の面影を残す町並みが残っています。
 
続きは次回にします。
 
赤坂宿・赤坂港跡
[住所] 大垣市赤坂町
 
赤坂港跡
 
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