垂井町の竹中氏陣屋跡に行きました。
竹中氏陣屋跡(垂井町)に行きました。
池尻町の交差点で左折して県道216号線を西に走り、2010年ひまわり畑のある
県道257号線(県道というイメージではありませんが)で岩手の集落の中を、
山に向かって北上したところにある竹中氏陣屋跡(垂井町)に行きました。
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付近は山が迫った静かな田園地帯ですが、長畑の交差点に大きな看板が立っています。
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立派な櫓門が現存しています。
小学生のころ、この櫓門の前を通って、お城のような建物だと思った記憶が
あります。その時以来の訪問です。
こんな建物が現存している城はなかなか無いため、これだけでも一見の価値が
あると思います。
戦国から安土桃山時代にかけての城跡が多くありますが、その多くは、廃城に
なったり、明治時代に破却されたり、戦災で焼けたりしています。(地元の大垣
城は保存され戦前は国宝でしたが、おしくも戦災で焼けてしまいました)。
通常、城跡はその地方の政治経済の中心地になっている場所が多いですが、
この垂井町岩手はJRの駅からもかなり離れており、不便なところです。
しかし、そのために、逆にこのようにきれいに残されていて、当時の様子を
偲ぶことができるので、たいへんうれしいことです。
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(しかしこの陣屋が作られたのは、竹中半兵衛の子である重門の代であり、
半兵衛は、ここに住んでいたわけではありません。)
半兵衛の代までは、ここから西にある菩提山城を居城としていましたが、
山の上で不便だったため、重門は麓のここ岩手に陣屋を築きました。
ごろに築かれたため、陣屋と言っても、小規模な城の構えとなっています。
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「智謀神のごとし」とも言われた名軍師として知られています。
斉藤道三の孫の龍興の家臣のころ、道三が築き難攻不落とされた稲葉山城
戦国の世に轟かせました。それを聞いた織田信長が美濃の半分を譲る条件で
城の引き渡しを求めたところ、主君を戒めるために起こしたことで、自分に欲は
ないとして、城を龍興に返還して、自分は山にこもったという逸話などで有名です。
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櫓門の南側には、立派な石垣と水掘も残っています。
領土を安堵されました。そして竹中氏の領地が戦場となったことから、徳川家康より
1千石の米を下賜されて、この堀が作られたため、千石掘と呼ばれていたそうです。
その後江戸時代、竹中氏は6千石の旗本交代寄合として仕え、明治時代まで
続きました。(交代寄合とは、旗本でも参勤交代もするという、大名に準じた家格です)。
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櫓門の内側には、外から内部が覗けないようにするための目隠し石垣が現存しています。
なお現在陣屋跡は、岩手幼稚園と小学校になっており、立入禁止のため、注意してください。
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竹中氏陣屋跡から、さらに山に向かって北上すると、竹中氏菩提寺の
禅幢寺(ぜんとうじ)があり、半兵衛のお墓もここにあります。
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さらにその先には、半兵衛水車小屋というものがありました。
竹中半兵衛とは直接関係ありませんが、古くから動力源として利用されていた
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そこから竹中半兵衛が居城としていた菩提山城跡に登ることができます。
岩手の集落からも離れた本当に何もないところで、確かにこの山の上では、
かなり不便ですね。
標高402mの城の上に築かれた大規模な山城だったようで、土塁や堀切などが
残っている城跡までは、1時間ほどのハイキングコースになっているそうです。
なお「クマ出没注意」の看板がありました![](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/b/bottchandesu/20010101/20010101155650.gif)
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登られる場合には、念のため、注意してくださいね。
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タルイピアセンターでもらったパンフレットです。
竹中氏陣屋跡
たくさんの方に御訪問いただきました。ありがとうございます。)
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