笠松湊跡を見学しました。
笠松湊跡(岐阜県羽島郡笠松町)を見学しました。
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笠松には江戸時代に幕府の陣屋がおかれたため、地方行政の中心地、地方物資の
集散地となり、湊町も繁栄するようになりました。
陸上交通の発達していなかった明治時代には、木曽川水運の拠点として発展し、
上流からは米や材木、薪炭などが運ばれました。
明治18(1885)年には笠松湊へ寄港する船は1日平均38艘、1年間に6,440艘あまりで、
明治25(1892)年ごろまでは桑名からの蒸気船が1日2往復していました。
大正から昭和初期には、ポンポン船と呼ばれる大型発動機船の時代となりましたが、
鉄道の普及、自動車の発達により、笠松湊の役割は終わりました。
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進むと伊勢、西に進むと京都への道が繋がっているということで、
天保四(1833)年に庄屋の高島久右衛門が建てた道標を復元したものです。
名古屋道は、将軍に献上する鮎ずしなどを運んだため鮎ずし街道とも
呼ばれていました。
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かなり小さいです。
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大八車を使って荷物を運ぶ際に、車輪が食い込まないように石畳が
敷きつめられていました。
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現在は、笠松みなと公園としてきれいに整備されています。
笠松みなと公園
[駐車場] あり
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