姉川古戦場に行きました。

17日に梅雨明けです。

東海地方も17日に梅雨明けしたとみられるとのことで、今日もとても暑かったです
熱中症には注意しましょう
夏本番ということで、ブログの背景も変更しました

姉川古戦場(長浜市)に行きました。

北陸自動車道の長浜ICを降りたところを左折し、県道37号線を東に進み、
国道東上坂の交差点を左折し、国道365号線を北にいったところにある
姉川古戦場に行きました岐阜県からは、国道21号線から、関ヶ原
国道365号線に入って、北上すると着きます。)
 
1570(元亀元)年に金ヶ崎の退き口(金ヶ崎城跡は、5月に眺めてきました)で、
浅井長政の裏切りにより、辛くも京都に退却した織田信長は、浅井長政
小谷城攻めるため、北近江に進出しました。
徳川家康の援軍を受けた織田信長と、朝倉義景の家臣朝倉景健の援軍を
受けた浅井長政の間で姉川の戦いは争われました。
 
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国道365号線の東側の野村橋にある姉川古戦場の看板、陣没者の追悼碑、
案内板です。
織田軍2万3千人、徳川軍5千人と浅井軍8千人、朝倉軍1万人が、今は静かな
この地で戦いました。
 
姉川の戦いでは、浅井軍は倍以上の織田軍の陣を突き進み、本陣に迫りましたが、
徳川軍が倍の朝倉軍を突き破り、浅井軍の背後に回って、とり囲んだため、
浅井軍は敗退し、織田徳川連合軍は苦戦の末に勝利したというのが、
歴史小説などでも描かれている通説です。
 
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国道365号線の西側にある「ちはら公園」の入口の看板と姉川古戦場碑と案内板です。
この地は、徳川軍と朝倉軍が激戦を繰り広げた場所で、「血原」いう地名になっています。
 
案内板の上に乗っているのは、朝倉家の有名な武将で、刃長五尺三寸(160cm)の
大太刀を奮って奮戦したという真柄直隆の原寸大の大太刀です。
ものすごく長いです。
 
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野村橋の南西側にある徳川家康が本陣を構えたという岡山(勝山)です。
 
最近では、姉川の戦い直後に浅井朝倉軍が京都付近まで進出したことなどから、
それまで言われていたほどの激戦ではなかったという説もあるようですが、
この地で、5万人近い将兵が戦ったことには間違いはありません。
 
姉川古戦場
[住所] 長浜市野村町付近
[駐車場] あり(ちはら公園)
 
 
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