神戸城~織田信長三男信孝の居城~(三重県鈴鹿市)

神戸城~織田信長三男信孝の居城~(三重県鈴鹿市

F1GPを見にいった際に、時間が中途半端になったので、鈴鹿市の市街地にある
戸城跡に立ち寄ってきました。
(読み方は、「こうべ」でも「ごうど」でもなく、「かんべ」です。)
大垣市方面からは、国道258号線から国道23号線に入り、柳ランプウェイを下りて右折し、
鈴鹿中央通りを西に進み、伊勢鉄道をくぐって北側にあります。
周辺は、伊勢街道に面した古くからの町並みです。
 
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 駐車場で車から降りると、すぐに石垣が見えます。
 
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城跡は、神戸公園として、地域の憩いの場となっています。
 
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西側には、堀の跡も残っています
 
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 この橋には、もう少し雰囲気があるといいですが。
 
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城跡には、石垣のみが残されており、建物等はありません。
(城門などは別の場所に移築されて残っているようです。)
 
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本丸跡です。広場になっています。
 
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天守台跡です。
この上に、金箔の瓦を用いた五層の天守が上がっていたそうです。
初期の石垣ですので、きれいに成形されてはおりませんが、立派な石垣でした。
この上には、休憩所のようなものが作られていました。
 
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現在、本丸跡は神戸公園、二の丸、三の丸は、神戸高校などになっています。
 
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城の歴史としては、伊勢平氏の子孫である関氏の一族の神戸氏が城主でしたが、
織田信長の伊勢侵攻により、永禄十一(1568)年に信長の三男信孝を養子に迎えて、
和睦することになりました信孝は、二男の信雄よりも、20日ほど早く生まれたそう
ですが、側室である生母の身分が低かったため、三男になったそうです)。
 
その後、織田(神戸)信孝は、天正八(1580)年、この神戸城に金箔の瓦も用いた
五層の天守築きました。
本能寺の変後の清洲会議後に、
信孝は岐阜城に移り、信長の重臣柴田勝家と結んで、
信雄と結んだ羽柴秀吉と対立しましたが、戦に敗れ、自刃することになりました。
 
その後、天守は、一柳直盛が城主の際に、神戸櫓として桑名城に移され、
神戸城に天守が築かれることはありませんでした。
その後、神戸城には、石川氏、本多氏が入りましたが、明治維新によって、
廃城となり、取り壊されることになりました。
 
今は石垣のみが残り、静かな公園となっていますが、かつては織田信長の三男信孝が
居城とした立派なお城であったことを、天守台の石垣から偲ぶことができました。
 
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神戸城跡(神戸公園)
[住所] 三重県鈴鹿市神戸6丁目
[駐車場] あり