安土城 其之二~史上初の天主閣がそびえ立っていた本丸跡~(近江八幡市)

安土城 其之二~史上初の天主閣がそびえ立っていた本丸跡~ (近江八幡市

安土城の続きです。
 
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城郭資料館にあった地図です。
中央下の駐車場から、一直線の階段を登り、左に折れたところにあるのが織田信忠跡で、
そこで道は二手に分かれ、まっすぐ左下の方に下りていくと総見寺跡に向かいますが、
右に曲がって本丸方面に登っていきます
 
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黒金門跡です。直角に折れ曲がった虎口になっています。
ようやく城らしい造形になっています。
 
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少し左手に登ったところが二の丸跡です。
 
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ここに織田信長が建てられています。
 
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本丸跡です。

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ここに京都の内裏清涼殿に非常によく似た建物が建てられていたようです。
信長は、天皇に京都から安土まで行幸を求め、前回の大手道を登って、ここの御殿まで
案内するつもりであったと考えられています。
 
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そこから階段を少し登ると、天主閣跡です。
 
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石垣の上のほうが崩れてしまっているようですが、不等辺八角形の天主台です。
かつてこの上に、城郭資料館で見たあの天主閣がそびえ立っていました。
 
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現在は、干拓されてしまいましたが、かつて安土城は、三方を琵琶湖からの内湖により
囲まれていました。
琵琶湖を囲む形で、南の坂本城明智光秀、北の長浜城羽柴秀吉、西の大溝城に
甥の津田信澄とネットワークを組むことができ、安土から高速船で京都、岐阜方面と
結ぶことで、各方面の戦陣と連絡をとり、出陣できる配置になっていました。
 
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安土城は、天正七年に完成しましたが、そのわずか3年後の天正十(1582)年に、本能寺の
変があり、明智光秀の謀反にあった織田信長は、京都本能寺で自刃することになり、
その後の混乱の中で、次男信雄とも、明智軍との説もありますが、本丸から出た火により、
灰となって、幻の城となってしまいました。
 
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天主台から織田信忠邸跡まで戻り、地図の左下の方にいくと、総見寺跡があり、
三重塔があります。天文二四(1454)年の建立で、別の寺から移築されたものです。
城の内部に寺があるのは、珍しいです。

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その下には、二王門があります。
元亀二(1571)年の建立とされ、これも別の寺院から移築されたものとのことです。
 
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門の両脇には応仁元(1467)年作の仁王像金剛力士像)も番をしております。
 
この道は、百々橋口道と呼ばれていますが、そこから外に出ることはできません。
そこから、山すその道を歩くと、先ほどの羽柴秀吉邸跡あたりに戻ってきました。

最初は、階段が高く辛かったですが、小牧城よりも楽に感じました。
ただしこの途中にブヨらしきものが飛んできて、手にとまり、すぐに払いましたが、
少し腫れました。気をつけてください。
 
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