清洲公園~桶狭間を見据える織田信長像~(清須市)

清洲公園~桶狭間を見据える織田信長像~(清須市

7月も終わりですが、先週は梅雨に戻ったような、すっきりしない天気が続いて、
新潟、福島県では、記録的な豪雨で、かなりの被害が出ているそうです。
福島県は、震災の被災地に今回の豪雨で、これ以上被害が拡大しないことを祈ります。
 
前回の続きです。
 
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清州古城跡公園の前の五条川にかかる赤い橋を渡った向こう側に清州城天守
天守と呼ぶことにしているそうです)が見えます。

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清州城天守閣は、天守としては初期の望楼型で建てられており、、大垣城をモデルとした
墨俣一夜城のように、明確なモデルはないのではないかと思いますが、あえて言うと
犬山城に似ています。
 
織田信長の居城当時に、天守はなく(そもそもまだ天守がない時代のため)、この天守閣は、
イメージですが、しかし、なかなか形のいい城にできていて、五条川にかかる赤い橋も、
いかにも、という感じありますが、いい雰囲気を出しています。
 
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清州古城跡公園から、五条川沿いに、JR東海道本線東海道新幹線をくぐると、
清州公園があります。
 
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この公園の木々の中に、織田信長が立っています。
昭和十一年に竹田鋹太郎氏の寄贈により、桶狭間の戦いを前にした、
二十六歳の織田信長像(作者杉浦藤太郎)です。
 
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桶狭間の方角を見据えているそうです。
圧倒的な兵力をもつ今川義元を前にして、桶狭間への出陣を決意する織田信長
緊迫感が伝わってくるようです。
 
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関ヶ原の戦い後、慶長十四(1609)年徳川家康が、尾張藩を清州から名古屋に移す
ことを決め、天下普請により名古屋城を建築し、清州城下町の家々を名古屋に移して、
清州城は廃城になりました(清州越し)。
その後、旧城下町は、清州新田として開発されましたが、天守台祉約二百三十三坪
(770㎡)のみは、尾張藩が清州城祉として保存し、明治に入って宮内省付属地とされ、
現在は県有地となっています。
明治十九年四月には、公園敷地内を貫いて、東海道本線も敷設されました。
そして、大正七年に織田信長への贈位を記念し、公園建設が計画され、周辺の土地を
買収し、大正十一年に清洲公園として開園したそうです。
 
 
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清洲公園
[住所] 清須市清洲3丁目7番地1
[駐車場] あり