大垣城 其の三(大垣市) ~天守からの眺め~

大垣城 其の三(大垣市) ~天守からの眺め~

大垣城の続きです。
 
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中山道垂井宿と東海道宮宿を結ぶ脇街道であった美濃路の宿場町でもあった
大垣宿の模型です。
大垣城の南西から北東にかけて町屋が並んでいました。
 
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黄色い部分が武家屋敷などで、黒っぽい部分が美濃路に沿った町人の町です。
 
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かつての堀割り、道路と現代の地図を重ねたものです。
こう見ると、総構え全体ではかなり広いお城であったことがわかります。
 
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4階は展望室になっています。
 
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石田三成になった気分で、徳川家康方の東軍がいた北西の赤坂岡山(お勝山)方面を
眺めてみます。
残念ながら、現在は、間にマンションなどが建っているため、はっきりとは見えません。
 
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東の岐阜城金華山方向を眺めます。
建物の間から辛うじて見えました。
 
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天守を下りて、東門のほうに向かいます。
 
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東門です。駅前通りから歩いてくると、こちらが正面です。
旧大小姓多門跡で、旧柳口門を移築したものです。
 
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再建された天守北東の丑寅隅櫓です。
 
大垣の地は、かつて東大寺の荘園で、その代官をしていたのが大垣氏であったことから、
大垣と呼ばれることになったようです。
大垣城の築城には2説ありますが、明応九(1500)年に竹腰尚綱によって、
または、天文四(1535)年に宮川安定によって築かれたと言われており、
初めは本丸、二の丸のみの小規模な城でした。

永禄三(1560)年ごろに氏家直元(卜全)が城主となり、総構えなどが整備されました。
その後、池田恒興、輝政などが城主となり、天正十六(1588)年ごろ、一柳直末によって、
もしくは慶長元(1596)年ごろ、伊藤祐盛によって天守が築かれ、四層四階総塗りごめ様式の
優美な城として知られていました。
 
慶長五(1600)年の関ヶ原の戦いの際、当時城主であった伊藤盛宗は西軍に属し、
大坂方面から石田三成らが入城して西軍の本拠地となりました。
西軍本隊は関ヶ原に移動し、城内には福原長堯らが守将となって残りましたが、
関ヶ原の戦いで西軍が敗北後、東軍に攻囲され落城しました。
江戸時代に入り、石川、松平、岡部などの譜代大名が次々と城主となり、
寛永十二(1635)年に戸田氏鉄(うじかね)が城主となり、その後明治に至るまで
大垣藩戸田氏十一代十万石のの居城となりました。
 
1873年明治6年)に発布された廃城令により廃城となりましたが、天守など一部の建物は
破却を免れ、1936(昭和11)年には天守等が国宝(旧国宝)に指定されました。
しかし1945年(昭和20年)7月29日の大垣空襲により惜しくも焼失しました。
天守は1959(昭和34)年に鉄筋コンクリート構造で外観復元されました。
 
 
 
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大垣市長松町にある平林荘跡(天理教本眞愛分教会)にある移築された清水御門です。
小さな門ですが、使われている木材などに歴史を感じます。
 
久しぶりに地元の大垣城に登って、関ヶ原の戦いの際に、西軍の本拠地になった歴史に
思いを馳せました。
 
 
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大垣城
[住所] 大垣市郭町2丁目52番地
[開城時間] 9:00~17:00(入城16:30まで)
[休城日] 火曜日、祝日の翌日、年末年始(12月29日~1月3日)
[入場料] 100円(18才未満無料)
[馬場(駐車場)]無し(近くに市営有料駐車場あり)