上有知湊跡(美濃市)~美濃紙の集散地として栄えた川湊~(関市・美濃市旅行編その4)
今日も、午後からは雨が降って、外には遊びに行けません。
小さいぼっちゃんも、散歩できないので、ストレスがたまらないかな。
今回は、関市・美濃市旅行編その4です。
上有知湊跡(美濃市)~美濃紙の集散地として栄えた川湊~ (関市・美濃市旅行編その4)
長良川の前野渡舟場跡です。
金森長近が、上有知の城下町を作り、この渡舟場近くに上有知湊を開いたため、
渡し場と湊に沿った道路は、商店、茶店、船頭屋敷が軒を並べて、大繁盛だったそうです。
明治の終わりに電車が開通し、大正五年に美濃橋もできて、渡し船も廃止され、
このあたりは急速に廃れることになったそうです。
金森長近が、上有知の城下町を作り、この渡舟場近くに上有知湊を開いたため、
渡し場と湊に沿った道路は、商店、茶店、船頭屋敷が軒を並べて、大繁盛だったそうです。
明治の終わりに電車が開通し、大正五年に美濃橋もできて、渡し船も廃止され、
このあたりは急速に廃れることになったそうです。
江戸時代に開かれた曽代用水です。長良川と小倉山の間を流れています。
関村の3名が、寛文七(1667)年に着工し、私財を投げ打って、破産状態になりながらも、
十年の歳月をかけて作った17kmの用水路は、新田開発に大いに役立ち、3百年以上
経った現在も、下流の人々の生活を潤しているそうです。
「がんばれ東北」船です。
かなり速い流れの中を頑張って進んでいました。
長良川に戻って、県指定史跡の上有知(こうずち)湊跡です。
金森長近が小倉山城の城下町として上有知の町を築き、その繁栄策として、上有知(こうずち)
川湊を開き、番船四十艘を置き、物資交流の拠点としました。江戸時代には、美濃四大川湊の
一つとして、明治末年に電車が開通するまで、美濃紙などこの地方の物資を運ぶ水運の拠点と
なりました。
上有知川湊の繁栄を今に伝えています。
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上有知湊跡