小簾紅園(瑞穂市)の紅葉を見ました。その2

小簾紅園(瑞穂市)の紅葉を見ました。その2

前回から日にちが空いてしまいましたが、小簾紅園瑞穂市)の紅葉についてです。
 
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江戸時代には、この地を中山道が通っており、揖斐川を渡る「呂久の渡し」がありました。
 
幕末期に、江戸幕府大老井伊直弼が、朝廷の反対を押し切り、日米修好通商条約
結んで開国し、それに反対する攘夷派を安政の大獄で粛清しました。
井伊直弼桜田門外の変で水戸浪士により殺されましたが、それまでに悪化した朝廷と
幕府の関係を修復し、協力して攘夷にあたる公武合体政策として、10年以内に攘夷を
実行することを条件に、孝明天皇の妹の和宮(かずのみや)が、江戸幕府第14代将軍
家茂(いえもち)に嫁ぐことになりました。
 
和宮は年も若く、有栖川宮熾仁親王との婚約を破棄させられて、異人のいる関東に下る
のは嫌がったそうですが、「君と民のため」降嫁を決意したそうです。
そして、京都から中山道を下って、この呂久の渡しを船で渡った際に、揖斐川の東岸の
馬淵孫右衛門の庭の美しい紅葉を見て、歌を詠んだそうです。
 
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かつて揖斐川は、現在よりも西側を流れており、この呂久の地は、揖斐川の東岸に
ありました(そのため、この呂久は、現在揖斐川の西にありますが、神戸町でも
大垣市でもなく、瑞穂市になっています。)
大正14(1925)年の揖斐川付替工事により、揖斐川の流れが東に移り、それに伴って
呂久の渡しも廃止されましたが、昭和5(1929)年に、この呂久の渡し跡地に、和宮
歌碑を中心とした小簾紅園が整備されました。
 
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庭園の中の一番小高いところにあるのが和宮の歌碑
落ちて行く 身と知りながら もみじ葉の 人なつかしく こがれこそすれ」です。
政略結婚により、住みなれた京都を離れ、婚約者とも別れなければならなかった
和宮の気持ちが偲ばれます。
 
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小簾紅園の前の道が旧中山道です。寺院や民家が当時の面影を残しています。
小簾紅園の向かい側にある大きな門の家が、和宮玉簾の中から紅葉を眺めた
船年寄の馬淵家の家とのことです。
 
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小簾紅園の西側には、小さな用水路が流れていましたが、かつての揖斐川面影は
全くありませんね。
 
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中山道の道に面したこの紅葉がもっとも赤く色づいていました。
 
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小簾紅園は、小さな公園ですが、幕末の歴史を偲び、紅葉を楽しむことができました。
 
小簾紅園(おずこうえん)
[住所] 岐阜県瑞穂市呂久
 
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