田辺城其之二~細川幽斎が築城した田辺城~(京都府舞鶴市)

田辺城其之二~細川幽斎が築城した田辺城~(京都府舞鶴市

田辺城の続きです。今回は田辺城の歴史について少し触れます。
よろしければ、もう少しお城巡りにお付き合いください。
 
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戦前の昭和15年に建てられた彰古館です。
内部は木造で、当時を思わせる雰囲気があります。
この1階2階に、展示物があります。
 
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マッチ棒で作られた復元模型がありました。
 
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大手門の2階は、舞鶴市田辺城資料館になっています。
左手奥の彰古館とは、石垣の上でつながっています。
こちらの見学も無料です。
 
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田辺城を築城した細川藤孝(幽斎)銅像です。 
 
細川家は室町幕府管領を務めた名家で、
細川藤孝(幽斎)は室町幕府第十五代将軍足利義昭の家来でしたが、義昭が信長を
討とうとした際に、信長方につき、その後明智光秀の与力として、丹波国丹後国平定に
力を尽くした恩賞として、天正八(1580)年に織田信長から丹後国を与えられ、
子の忠興とともに、この田辺城を築城しました。
 
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その後、慶長五(1600)年関ヶ原の戦いが始まる前、東軍に着いた細川家に対して、
石田三成方の西軍が一万五千人の大軍で田辺城に押し寄せました。
子の忠興が主力を率いて東軍に参戦していたため、田辺城には留守居役の幽斎と
約五百人の兵しかおりませんでしたが、五十余日を守り通しました。
幽斎は、古今和歌集の秘事口伝の伝承者(古今伝授)であったたため、その廃絶を
憂慮した陽成天皇の勅命により、西軍の包囲は解かれることになりました。
以前本で読んだ際に、戦の最中でも、そんなことがあるのだなと思った逸話です。
 
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その後、忠興は関ヶ原の戦いの恩賞として、加増され、豊前中津に移り、
田辺城には、京極氏、牧野氏が入城して、明治維新に至りました。
 
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当時の縄張りです。
 
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舞鶴市なのに田辺城なのはなぜなのかと思っていましたが、
今回行く前に田辺城について調べていたところ、
田辺という地名が和歌山県田辺と
重なるため、田辺城の別名が舞鶴城といったことから、明治に入って、藩、市の名前として
つけられたそうです。
 
田辺城は、ふるさと創生事業で作られた大手門が立派で、
戦国時代の逸話も残るお城でした。

参加しています
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舞鶴市田辺城資料館
[住所] 京都府舞鶴市字南田辺15-22
[電話番号] 0773-76-7211
[休館日] 毎週月曜日、祝日の翌日、12月29日~1月3日
[開館時間] 9:00~17:00
[入館料] 無料